家宝ものの本をゲットしてしまった。
もっと早くこの本に出会っていればよかったー!
と言いつつ、読んでもその8割は消化しきれませーん!
この分厚さ…!!
伊藤武先生ので本はもともと一冊持っていまして、貸した方から返ってこないと催促して返してもらうくらい(普段はしません)
何が何でも手元に置いておきたい一冊になっていました。
この本は衝動買い。
しかし家宝並みの内容です。
この中に、あるサードゥ(行者)から聞いた話として分かりやすいなあと感じたエピソードがあったのでご紹介しますね。
「目の不自由なひとと、足の不自由なひとがいた。ふたりはいつも一緒。目の不自由なひとが、足の不自由なひとを背負って歩いた」
プラーナは宇宙に遍満する膨大なパワー。
でもそれ自体に意志はない。
自分でどこに行けば良いのかわからないから目の不自由なひと。
対して、意志はあるけど自らは動くことのできない足の不自由なひととはマナス(こころの一番粗大な領域。表層意識)のこと。
目の不自由なプラーナに、足の不自由マナスを背負わせる。
プラーナとマナスはいつも一緒です。
それがプラーナヤーマ(調気法)を行うときの大前提。
ただ呼吸してるだけでは、それはただの呼吸法。
プラーナはマナスが伴って初めてエネルギーになります。
そういう意味ではプラーナは在るもの、というより感じにいくもの、なのですね。
だからこそ、マナスをどこに置くか、意識がどこに向いてるかがとても大切です。
マナス(表層意識)は落ち着きのない猿に例えられます。
猿は木から木へと飛び跳ね、常に食べ物を探してる。
右手でオレンジを掴んでむしゃむしゃ食べているうちに、別のオレンジが目に入れば左手でもぎ取り、右手のオレンジは食べかけのまま投げ捨ててしまう。
人間のマナスもそんな感じ。
プラーナをコントロールすることは、
マナスをコントロールすること。
与えられた素晴らしいエネルギーを
より良い方向に使っていきましょう。
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