上から下への反対に賛成なのだ。

「この世はどのようにできたのでしょうか?私たちはどこから来たのでしょう?」


「それはな…」


 民からの問いに聖仙(リシ)は答える。


「かのはじめのとき ― 世界が生まれる前のことじゃ、有(存在)はなかった。無もなかった。もちろん時間も空間も、星々も、生も死もなかった。だが、ただ水があった」


「なにもないのに水があった…おかしいんじゃないでしょうか?」


「有るでもない、無いでもない。言葉で表すことのできぬ何か、ということじゃ」


「はぁ…」


「まあ、聞きなさい。その水にゆらぎが生じた。ゆらぎは熱をはらんだ。熱は『われは唯一者なり』という意識を帯びた。意識は『在りたい。もっと在りたい』というカーマをいだいて…」


「カーマって、あのカーマでしょうか?」


「そうじゃ、おまえさんらが女子に対していだく熱い気持ちじゃ。意識はカーマをいだいて大爆発したのじゃ。そうして有のタネが蒔かれた。時間と空間が生まれ、星々が生まれ、大地が生まれ、生物が生まれ、われわれ人間が生まれた」


これは『リグ・ヴェーダ』に書かれた「宇宙開闢(かいびゃく)の詩」である。

紀元前1000年頃にまとめられた『ヴェーダ』群は、ヴェーダ時代後期に書かれた『ウパニシャッド』と合わせて天啓と呼ばれる。

天啓-神の言葉を紡いだもの、という意味だ。

現代に伝わるマントラはこの『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』群から拝借しているものが多い。


聖仙(リシ)は神からのメッセージを霊感として受け取る。

あらゆる智慧、あらゆる知識が時空を超えて一瞬のうちに流れ込んでくる。

瞬時に感得されたそれを表そうとすると、時間的・空間的制限に沿って解きほぐさねばならない。

それらは時に詩や音楽や絵や像となって表現される。

当然、受け取った時代や場所、人物によって表現にバリエーションが表れる。

上記したヴェーダの詩もまた、別の詩では“水”が“プルシャ”と表現される。


しかし。

時代や場所を超え一致するものもある。

日本の神話、古事記ではこうだ。


―その昔、世界はまだ水にういた油のようなものでしかなかった。

はるか天のかなたにある神の国、天之御中主(あめのみなかぬし)の神が、ある時、伊邪那岐(いざなぎ)という男神と伊邪那美(いざなみ)という女神にこう命じた。

「あの頼りない下界を住みやすい土地に変えるがよい。」

伊邪那岐と伊邪那美は、~中略~ 天の沼矛を手にすると天地のあいだにかかっている天の浮橋に立った。
それから矛を目の下へただようようなものの中にさしこみゆっくりとかき混ぜてみた。
すると水のようなうっすらとしたものが、次第に固まり始める。
つぎに矛をひいてみるとその先から濃い潮がしたたり落ち、やがて積もって島になったのである。―


日本の神話もまた“目の下へただよう水のようなもの”なのだ。

詳細は省くが、聖書の創成期もまた、水は原初からあるものとして描かれている。

水、みず、ミズ。水なのだ。

 

そういえば先日初めて滑川渓谷に行った。

自宅から1時間。駐車場に車を止め、歩いて10分。

目の前に渓谷が見えた瞬間空気が変わった。爽やかな風が吹く。

やや涼しい。

呼吸がしやすい。

そう、みんな大好きマイナスイオンである。

足首ほどの水位で軽快に流れる清流にそっと足を入れるとひんやりと冷たい。

そのまま足を突っ込みながら、流れに逆らい上流へと歩き続ける。

滑川渓谷は人を歓迎してくれる渓谷だ。

ほどよい水量と流れで、子どもから大人まで川の中に入り、景色を眺め、様々に変化する流れを身体で感じることを許してくれる。

サービス精神満点なのである。


水は流れ続ける。

次から次へと。
それに逆らうように私は歩く。
下流から上流へ。

水をはじく感覚を楽しみながら。

ああ、なんて気持ち良いんだ!


大きな岩をよじ登ろうとしたその時、川の水がやや溜まっている箇所が目に留まった。

と同時に一瞬、心に嫌な感覚を覚える。

あれ?なぜか気になる。


普段ならそこだって充分綺麗な水である。

おそらく少しくらいなら飲んでも平気だ。

しかし流れ続ける清流の中では異様に目立って見える。


あぁ、ここも流れてほしい。


と同時に「留めない。流していく」というのは自然界の法則なのだ。

それが自然なのだという感覚がすーっと降りてきた。


流す、流す。流れにくいものも、必ず流れていく。

それが心地よいというのが自然な状態なのだ。

私の中の血管やリンパ管は川と同じだ。

エネルギー体の脈であるナーディ―も同じだ。

物もお金も愛情も見えるも見えないもすべて流していく。流れていく。

受け取ったら渡していく。

これまで何度も読んだことだ。

習ったことだ。

正しいと感じていたことだ。

それが自然の法則だと身体が感じた。

そのことが発見だった。


そんなことを考えながら歩き続けていると「龍の腹」と名付けられた滝が現れた。

周りを見れば誰もいない。

チャンス!とドボンと飛び込んだ。

身体がいっきに冷える。

構わず頭まで突っ込む。

滝壺へと落ちてくる水の音と勢いは身を浸すとなお強烈だ。

これで龍の腹程度だから“原初の水のようなもの”からあふれ出たエネルギーはさぞ凄かっただろう。

同じエネルギーが自分の中にも流れている。


そうだ。

水源をたどるように自分の始源に立ち戻るための方法がヨーガだ。

ヴェーダでは、原初の水からビッグバンのように溢れ出たエネルギーがあらゆるものを創造したと語られる。

顕れ出たものはそう簡単に戻らない。

時間も肉体も感情も変化し続ける。

流れ続ける。

離れれば離れるほど源が分からなくなる。

この流れはどこから来たのか。

滑川渓谷を源流に向かって歩くように、私たちは自分の源を見つけるためにヨーガを実践する。

アイデンティティの問題だ。

私たちの本性は変化し続けるこの肉体ではない。

もとを辿れば生きとし生けるものはすべて、原初の唯一者ブラフマンに辿り着く。


まぁ、もっとも。

自然に任せれていれば、全ての生き物はいずれ死を迎えブラフマンのもとへと還る。

川がいずれ海となり、蒸発して雨となって源へ還るように。


渓谷は水源が近い。

皆、在ると知っているから途中飛び込んで遊んだりしながらも、水源目がけて登っていく。

下流の川ではそうはしない。

水源のことなど想像しないからだ。

ブラフマンと自分との間にも同じ事情が存在する。離れすぎるとどこから来たのかわからなくなり迷子になる。


皆、源を持っている。

ブラフマン、地球、師匠、両親。

時は流れる。変化することは自然である。

しかし源は自分自身にとって不変である。

源が無いと感じたり、それ故に不安を感じるのであれば、それは下流に行き過ぎて水源を見失っているだけなのかもしれない。


というわけで
上から下への反対に賛成なのだ。
バカボンのパパ口調で書いてみたのだ。

yoga shala NILA

カラダの自然を活かして動く ~愉快な身体とピュアな心の探求場~

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